お礼

 

以前、大好きなアフリカに滞在していて気付いたことがある。

 

日本ではアフリカを形容する場合「大自然」という言葉がよく出てくる。

その大自然の中に暮らす人を無視した、あくまでも日本人から見た場合のイメージ。

社会という基盤の上で日常の生活している身としては、それはそれで仕様がないことではあるけれど、どうも「大自然っていうのは釈然としないなぁ」と思っていたのだ。

 

釈然としない理由をアレコレ考えてみたものの、明快な答えなどある訳でもなく、心のどこかに引っ掛かったまま、大逸れた(俺にしてみたら)冒険をしてみたのだ。

 

通常、現地ガイドを伴ってしか入れない、世界遺産に登録されているマリ共和国のドゴン族の住む集落(幅約150km)を縦走したのだ。1日約20km歩けば1週間でゴール。

 

さて、勢い勇んで足を踏み入れたものの、人の歩いた痕跡すら残らない岩場のケモノ道を歩くハメになった。気温は37℃、持っている食料は缶詰10缶とバン(フランスパンのようなもの)5つと水1リットル、それと行動食のナッツ類1袋と飴。

 

食べ物はともかく、水がものすごい勢いで無くなっていく。

最後の水を飲み切って2時間後、ようやく最初の村が見えた時は「これで小便を飲まなくて済む」という喜びが体中から沸き起こった。1日目にして遭難しそうになったのだ。

 

その一日目、満点の星空の下で寝っ転がって考えた。

日本で普通に暮らしている人がいきなりこんなところに放りだされたら、自然に対しては畏怖する以外、何の感情も見出せないのではないだろうか。エコロジーとか言ってるけど、自然なんてのは守るべき対象物として見るのじゃなくて、畏怖するものとして見なくてはいけないのだ。ギリギリのほとりに人や動物・植物は生かされているに過ぎないのだ。

 

ありがたいこと。

本来、有ることが難しいという意味から、まれである、貴重だ、尊い、そして感謝したい、うれしい、という意味に使われるようになった言葉。

 

最初の自然のことについて思うのだけど、いつの間にか逆に感じさせるように社会というものが変化を起こしたのだと思う。貴重な自然なんていうものは無く、自然のほとりで生かされているのが貴重なのだ。

 

人対人であれば戦った場合どちらかが勝つであろうし負けるのである。いわれのない一方的な主張で攻撃をされた場合でも、する場合でも、怒りの矛先、憎しみの矛先を探すのはひどく容易なものだ。

 

だけど自然対人であれば戦えば必ず人は負けるし、自然からの一方的な攻撃でも怒りの矛先、憎しみの矛先を探すのはひどく難しい。

 

今、生かされているということに有り難いと思える社会基盤、自然を畏怖できる社会基盤ていうものがこれから必要になってくる気がする。奇しくも異常気象という言葉が日常化している訳だし、誰しも「大自然」の中で暮らしているのだ。ということを意識できる世の中になってきているのだ。

 

ところ変わってカラハリ砂漠。

1度飛行機で上空を飛んだことがあるのだけど、砂漠を抜けると今度は一変して緑の大地が広がる。雨季には自分の住む街とは雨の音がものすごい違うだろうと想像できる程の緑の大地。砂漠はボツワナの国土の70%を占めるという。

その国の通貨はプーラ(Pula)という。

それはまた雨という意味でもある。

100円を100雨というようなことだ。

同じくらいお金と雨は有り難いものという思いが伝わってくる。

 

アリガトウ。

 

上記の回りくどい文章を踏まえて、今回のくらふてぃあ杜の市で出会った全ての人に感謝!



Y


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